日本百名城。北上川と中津川の合流点近くの丘陵に築かれた城。当地を支配する南部信直が文禄元年(1592年)に築城を開始し、盛岡城に居城を移した。築城当初の自然石を用いた石垣、後に築かれた切石の高石垣など、異なる年代の石垣が見られる。
かつては鳥谷ヶ崎城と呼ばれ稗貫氏が城主であった。豊臣秀吉の関東征伐の際に稗貫氏は改易され、南部氏の所領となった。このとき城名を花巻城と改めた。以降南部藩の支城として江戸時代を通じて役割を果たした。
もとは奥州藤原氏(藤原清衡)の居館跡。のちに清衡は居館を平泉に移した。奥州藤原氏の滅亡後には葛西家が支配したが、豊臣秀吉の奥州仕置きの際に改易された。代わって伊達氏が支配し、岩城家(岩谷堂伊達家)が入り幕末まで続いた。
築城時期は不明だが、葛西氏の領地であった。葛西氏が豊臣秀吉により改易されると、伊達政宗の持ち城となり、政宗は家臣の白石宗実を城主に任じた。寛永六年には政宗の従兄弟である留守宗利が城主に任じられ、以降幕末まで続いた。
鎌倉時代に三田将監が築いたのが始まりと言われる。三田氏は葛西氏の重臣・柏山氏の家臣であったが、三田氏は柏山氏と対立し滅亡した。葛西氏が豊臣秀吉により改易されると伊達政宗の支配を受け、政宗の家臣・大内定綱が城主に任じられた。
当地は室町時代末期には葛西氏の領地であったが、葛西氏滅亡後は伊達家の支配下に入った。寛永18年には伊達政宗の十男・宗勝が領し一関藩として独立した。宗勝は寛文11年の伊達騒動により失脚し、代わって田村家が一関藩藩主となった。