日本百名城。結城親朝が興国年間(1340~1346)に築いたのが城の始まりと言われる。寛永4年(1627)に白河に封じられた丹羽長重が現在見られる形に城を改修した。三重櫓と前御門が史料によって正確に復元された。
伊達家が永禄年間に家臣に命じて築かせた城。天正十九年には伊達成実が、慶長三年に伊達政宗の叔父・石川昭光が城主に任じられた。昭光は城の改修を行い、城下町を建設し、幕末まで石川氏が領主を務めた。一国一城令後は「角田要害」と呼ばれる。
金山城は相馬家家臣の井戸川将監・藤橋紀伊が永禄年間に築城した城である。その後、相馬家と伊達家の間で攻防が行われ、天正十二年に落城し伊達家の支配下に入った。政宗は家臣の中島宗求を城主とし、以降幕末まで中島家が城主を務めた。
文治年間に伊達朝宗が築いた城。代々伊達氏の本拠地となった。のちに蒲生氏を経て上杉氏の城となった。城主は須田長義で、関ヶ原合戦直後に上杉領の浸食を企む伊達軍の攻撃を受けるが撃退した。寛文4年に上杉氏から没収され廃城となった。
平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征伐を行った際に菅原敬実が当地に西館を築いたのが始まり。その後、元亨三年には当地は相馬家の支配下に入り、慶長十六年に相馬利胤が小高城から相馬中村城に本拠地を移した。以降幕末まで相馬氏が支配した。
赤松氏の一族であった常盤顕則が居城とし、代々城主を務めた。常盤氏は三春城の田村氏の支配下にあったが、第五代・貞久の時に城を去り、代わって石沢修理が城主となった。天正17年(1589)には相馬氏の攻撃を受け落城した。
戦国大名・田村氏によって築城された城。伊達政宗の妻・愛姫はこの城で田村家の娘として産まれた。のちに田村家は伊達派と相馬派に分かれ相争ったが、結局伊達派が勝利しその支配下に入った。のちに三春には秋田氏が入り、三春藩藩主となった。
白川城は白河結城氏の本居城である。鎌倉幕府の御家人である結城朝光が当地に任じらたのち、その子孫が白川城を築いた。白河結城氏は一族の争いなどで弱体化し、佐竹氏や伊達氏に従属していたが、豊臣秀吉により改易された。
棚倉城は寛永2年に丹羽長重が築いた城。当地には元々近津神社の境内であったが、築城に適しているため神社を移転させ城を築いた。東国の城らしく城の周囲は主に土塁で囲まれている。戊辰戦争の際には新政府軍の攻撃を受け落城、のちに廃城された。