刈田氏のちに白石氏が治めた。白石氏は伊達氏の支配下に入り、以降蒲生氏、上杉氏が治める。関ヶ原合戦後再び伊達氏の支配下に入り、やがて片倉景綱が城主となった。明治維新時には奥羽越31列藩同盟がこの城で結ばれた。
日本百名城。城の始まりは南北朝時代に葦名氏が築いた黒川城である。豊臣秀吉による奥州仕置きにより蒲生氏郷が入り、この時城名を鶴ヶ城と命名した。戊辰戦争の際には会津藩は旧幕府側に立ち、新政府軍の攻撃を受け1ヶ月間籠城に耐えた。
越後から会津に転封された上杉景勝が慶長五年(1600)三月に築城した城。当時の景勝の居城は会津若松城であったが、新たな居城として阿賀川沿いの地に築城を行った。城の鬼門である北東角には高瀬のケヤキと呼ばれる巨木が立ち、現存する。
築城したのは当地の豪族・長沼氏で、南北朝時代の築城である。長沼氏は会津の戦国大名・蘆名氏に属していたが、蘆名氏滅亡後は、当地は蒲生氏、上杉氏の支配下に入り、上杉氏の時代には家老・直江兼次の弟・大国実頼が城主を務めた。
南会津の山間地を流れる伊南川沿いの小山に築かれた城。会津の戦国大名であった蘆名氏は伊達政宗に滅ぼされ、当地の豪族・河原田盛次はそれに対抗するために久川城を築いたと伝わる。伊達政宗の軍勢が攻め寄せるがその天険に拠って撃退に成功した。
阿賀野川流域の会津・越後国境を守る城。当地は現在は新潟県に属するが、以前は陸奥国に属していた。城は阿賀野川と常浪川の合流地点付近の麒麟山に築かれている。会津の芦名家重臣・金上家が城主を務めたが、芦名家滅亡後は伊達家、蒲生家、上杉家、再び蒲生家が支配した。
日本百名城。城の始まりは奥州探題の畠山満泰が築城したと言われ、代々畠山氏の居城となった。畠山氏は伊達氏によって滅ぼされ、のちに蒲生氏、上杉氏、松下氏、加藤氏と城主が替わった。寛永20年に丹羽光重が封じられ二本松藩が建てられた。
鎌倉幕府樹立に貢献した佐原義連が源頼朝から会津四郡を与えられた際に築かれた城。義連の子・経連は猪苗代氏を称し、代々この城の城主をつとめた。その後伊達氏、蒲生氏、上杉氏、江戸時代に入り加藤氏、松平(保科)氏が支配した。
伊達朝宗は鎌倉幕府開府に功があり、当地に封じられ、その支配のために桑折西山城を築いた。享禄五年に時の伊達家当主・稙宗が居城を梁川城から桑折西山城へ移したことで桑折西山城が伊達家の本居城となり、城の拡張が行われた。
福島城は杉目城・杉妻城とも呼ばれた。伊達氏が支配した時代には大森城の支城の役割を果たした。江戸時代は当地は上杉家の所領であったが、減封された際に幕府領となり、さらに延宝七年に福島藩が立藩され、本多氏、堀田氏、板倉氏が藩主を務めた。
当地は鎌倉時代から伊達家の支配下にあり、十六世紀中ごろに築城された。伊達家は豊臣秀吉による奥州仕置により転封され、蒲生氏が支配した。慶長3年には上杉家が入り、寛文四年に減封され、当地は幕府領となり大森城は廃城となった。
小浜城は南北朝時代に奥州探題の本居城であった四本松城の支城として築かれ、のちに大内定綱が城主となった。天正13年には、伊達政宗の攻撃を受け、城は政宗の手に落ちた。政宗は小浜城を居城とし、会津の蘆名氏侵攻のための拠点とした。
宮森城は大内家が支配していたが、天正13年に伊達政宗の攻撃を受け落城。政宗の父・輝宗が城主となった。同年に二本松城主・畠山義継が和睦を求め輝宗を訪問するが、輝宗は義継に拉致され、政宗が義継を父・輝宗もろとも殺害する事件が発生した。
当地の豪族・二階堂氏によって築かれた城。二階堂氏は会津の蘆名氏と敵対するが劣勢で、当主・盛義は子の盛隆を人質に出し、蘆名氏と和睦した。盛隆は蘆名家の養子となり蘆名家の当主となった。天正17年には伊達政宗の攻撃を受け落城した。