会津若松城の始まりは、南北朝時代に葦名氏が築いた黒川城である。葦名氏は天正17年(1589)の伊達政宗との決戦に敗れ、黒川城は政宗の支配下に入った。
翌年の豊臣秀吉による奥州仕置きにより蒲生氏郷が入り、七層の天守を建て、地名を若松に改めた。この時城名を鶴ヶ城と命名し、この時の名が今でも通称で使用される。
蒲生氏の後には上杉景勝、関ヶ原合戦後は再び蒲生氏が復帰、のちに加藤氏、松平(保科)氏と城主が代わった。加藤氏の時代であった慶長16年(1611年)には大地震が発生し、天守が倒壊してしまったため、五層に改められ再建された。また、北出丸、西出丸が拡張され現在の城の姿となった。
戊辰戦争の際には会津藩は旧幕府側に立ち、新政府軍の攻撃を受け1ヶ月間籠城に耐えるものの、ついに降伏した。 天守は1874年に解体されたが1965年に復元された。
日本百名城。城の始まりは南北朝時代に葦名氏が築いた黒川城である。豊臣秀吉による奥州仕置きにより蒲生氏郷が入り、この時城名を鶴ヶ城と命名した。戊辰戦争の際には会津藩は旧幕府側に立ち、新政府軍の攻撃を受け1ヶ月間籠城に耐えた。
(2008/9/8 作成、2010/8/29 更新)