勝山御殿は長府藩が幕末の文久三年(1863)から築いたもので、わずか七カ月で完成した。名称は御殿であるが、実態は城郭そのものであった。当時の長府藩は攘夷のため外国船に攻撃を加えていたが、海沿いの長府に対して外国船からの攻撃を受けたため、内陸の勝山に城を築き本拠を移したと言われる。藩籍奉還、廃藩置県に伴い、御殿は豊浦藩庁、豊浦県庁として用いられたが、明治四年(1871)に豊浦県は山口県と合併し、御殿は役割を終えた。現在は公園として整備され、石垣などが残る。
なお、背後の勝山には戦国時代に築かれた且山城があり、大内氏の家臣・内藤氏が城主であった。
長府藩が幕末の文久三年から築いたもの。わずか七カ月で完成した。名称は御殿であるが、実態は城郭そのもの。当時の長府藩は攘夷のため外国船に攻撃を加えていたが、海沿いの長府に対して外国船からの攻撃を受けたため、内陸の勝山に城を築き本拠を移したと言われる。廃藩置県後、御殿は豊浦藩庁、豊浦県庁として用いられたが、豊浦県は山口県と合併し役割を終えた。
(2013/1/4 作成)