清洲城は尾張国守護・斯波義重が築いたと伝わり、のちに守護所となった。守護代は織田氏がつとめていたが、天文22年(1553)に守護であった斯波義統が守護代の織田信友とその家臣・坂井大膳に殺害された。信長は信友・坂井を討つために清洲城を攻撃し、叔父・信光の協力もあり清洲城を攻略した。これを機に信長は清洲を本拠地とした。
信長が天正10年(1582)に本能寺の変で没すると、清洲城でいわゆる「清洲会議」が開かれ、信長死後の後継者や領地について話し合いが持たれた。この会議の結果、尾張・南伊勢・伊賀は信長の次男・信雄の領地となり、清洲城を居城とした。
天正18年(1590)に信雄は秀吉から東海地方への転封を命ぜられるが拒否し、改易された。これにより清洲城は豊臣秀次の持ち城となった。文禄4年(1595)に秀次が失脚すると福島正則が城主となった。正則は関ヶ原合戦で東軍につき、安芸に加増転封されると、家康の四男・松平忠吉が入るが、間もなく忠吉は死去し、代わって家康の九男・徳川義直が入った。
慶長15年(1610)には家康の命により名古屋城の築城が開始され、清洲から名古屋へ移転が行われた。これにより清洲城は廃城となった。
尾張国守護所でのちに織田信長が攻略し本拠とした。本能寺の変後は次男・信雄、豊臣秀次、福島正則が城主となった。正則が関ヶ原合戦後に転封されると、家康の四男・忠吉、九男・義直が入った。その後名古屋城が築城され、清洲城は廃城となった。
(2009/3/9 作成)