日本百名城。首里城は琉球王国の国王の居城であった。城は石灰岩でできた丘に築かれ、建物は中国の影響を強く受けている。その後、城は太平洋戦争で破壊し尽くされたが、のちに復元され、世界遺産に登録されている。
日本百名城。本部半島に築かれた城で、北山王の居城。のちに琉球王国の北山支配の中心地となった。慶長9年には薩摩藩の軍勢が今帰仁城に襲来し、城は一度焼失した。さらに1665年には北山支配のための役割を終え、廃城になったと伝わる。
1422年に尚巴志の配下であった護佐丸が築いた城。のちに護佐丸は中城城を築き、1440年に居を移したが、城はそのまま使用されたものと思われる。城門は石垣の中にアーチ型の穴が開けられる形である。
勝連按司の本拠城として使用された城。勝連按司は積極的な貿易で繁栄したため、琉球国王・尚泰久は娘を阿麻和利に嫁がせ味方に引き入れた。その後阿麻和利は琉球国王に対して謀反を起こしたが、勝連城を攻められ落城した。
日本百名城。琉球国王・尚巴志の配下であった護佐丸が築いた城と伝わる。その目的は、勝連城の阿麻和利を抑えるためであったが、のちの国王・尚泰久は阿麻和利の讒言を信じ、中城城の護佐丸を攻め滅ぼした。城からは太平洋を眼下に見下ろす。
舜天王統、英祖王統、冊度王統の居城。英祖王統時代には城の脇に王の墓である「ようどれ」が造られた。中山王の武寧王が尚巴志に滅ぼされると首府は首里城へ移された。その後浦添按司の居城となるが、慶長14年に薩摩藩の攻撃を受け焼失した。
沖縄本島の最南端付近にある城である。本丸部分は海に突き出した断崖上にある。伝説によれば、具志川城は久米島の具志川城・真金声按司が本島に脱出した際に築いた城と言われる。
糸数城のはじまりは明らかではないが、14世紀頃の三山時代に玉城按司が築き、三男を糸数按司に任じ城を任せたと伝わる。城は三方を断崖に守られた要害に位置する。現在城跡には長く連なる石垣が残り、その高さは6m、長さ700mにもなる。
玉城城の築城年代は不明だが、英祖王統の玉城の居城であったと言われる。現在は一の郭が残り、その入り口は石に穴を開けた城門がある。二の郭、三の郭の石垣は基地建築のために持ち去られた。
知念城の始まりは明らかではないが、12世紀頃の築城と思われる。城はミーグスク(新城)とクーグスク(古城)からなり、ミーグスクには御嶽が存在する。城からは琉球の聖地である久高島が望め、宗教施設の色も濃い城である。