【城の歴史】
小田原城は室町時代末期に扇谷上杉家家臣の大森氏の城であったが、伊豆国を支配していた北条早雲(伊勢新九郎と呼ぶのが正しい)が攻略した。
城は北条氏によって拡張され、二代氏綱の時に北条氏の本拠地とされた。堅固な守りで有名で、上杉謙信・武田信玄による攻撃を撃退している。また、豊臣秀吉による北条氏攻めの前には城下町を含む周囲約9kmの惣構によって城域が囲まれた。しかし時代は天下統一に傾き、豊臣秀吉の攻撃に対しても北条氏は小田原城に篭城するが、約三ヶ月後に降伏、開城。戦国大名・北条氏は終焉を迎えた。
その後、徳川家康が関東に入封し、家康の家臣・大久保忠世が城主となった。子の忠隣が失脚したことにより一度は廃城とはったが、再び改修され城主として大久保氏が復帰、東海道の関東の入り口を抑える重要な城としての役割を果たした。また江戸時代中には富士山の噴火や地震に何度も見舞われすが、そのたびに復興してきた。
【城の立地】
西から東海道を下ると、箱根を越えて関東平野に入るところにこの小田原城があり、西から関東への侵入を防ぐ非常に重要な位置にある。
【城の見どころ:普請(土木工事)編】
小田原城は大きく2つのゾーンに分けることができ、その両方が現在でも残る。1つは江戸時代の小田原城で、本丸や二の丸、三の丸など石垣と水濠からなる近世の城の部分である。火災や地震など何度も襲う災難に対し、その都度立ち上がり復興してきた歴史を窺うことができる。
もう1つは戦国時代の小田原城で、戦国大名・北条氏が築いた城下町や田畑までを城域に取り込む周囲9kmもの惣構を始め、城内の要所を土塁と空堀を中心とした土の防御構造で作り上げた戦国の城の部分である。堀は関東ローム層の土でできているため非常に滑りやすく登るのは困難で、大軍を擁する豊臣秀吉も小田原城の堅固な守りを見て力攻めは行わなかった。その当時屈指の防御力を備えた小田原城の守りが今もこの目で見ることができる。
【城の見どころ:作事(建築)編】
小田原城には現存する建物は無いものの、本丸から二の丸にかけて幾つかの城郭建築が建てられている。本丸には天守と常盤木門が古くから建ち、往時の建物を忠実に再現したものではないもののその威風堂々とした姿で、古くから小田原城のシンボルとして親しまれている。二の丸に建つ銅門と馬出門は発掘調査や絵図などをもとに、伝統的な工法で復元されている。
【主な参考文献等】
現地看板
ライブストリーミング 千田先生と行く!日本最強で不滅の城ライブvol.3 小田原城 2022/4/17
動画 梅丸おだわら散歩~小田原城総構編~、小田原市公式チャンネル、2022/4/4、https://www.youtube.com/watch?v=JNxFpmXl0kE
動画 梅丸おだわら散歩~小田原城正規登城ルート編~、小田原市公式チャンネル、2021/7/1、https://www.youtube.com/watch?v=wWZrtONeVSE
動画 小田原城址公園 御用米曲輪整備について、小田原市公式チャンネル、2022/4/17、https://www.youtube.com/watch?v=o01_eM2Q_3Y
日本百名城。後北条氏五代約百年間に渡る支配の本拠地となった。堅固な守りで有名で、上杉謙信・武田信玄による攻撃を撃退している。また、豊臣秀吉による関東討伐前には城下町を含む周囲約9kmの惣構によって城域が囲まれた。現在の天守は昭和35年に建造されたもの。
(2007/11/23 作成、 2014/4/29 更新、 2022/4/27 更新、2024/4/20 更新)