引田城は讃岐国の東端、阿波国との国境付近の海沿いに築かれた城である。城は海に突き出した半島状の地形に築かれ、麓の引田港を抑え、水軍の拠点として活用された。
引田城は戦国時代には寒川氏が領し、三好氏と争い、のちに四宮氏、矢野氏らが城主となった。天正11年(1583)には羽柴秀吉の勢力が当地にも及び、秀吉の家臣・仙石秀久の支配下に入ったが、土佐の長宗我部氏が四国を統一した際にその支配下に入った。さらに秀吉が長宗我部氏を下すと再度仙石秀久が入った後、仙石秀久の左遷に伴い尾藤知宣が城主となった。天正15年(1587)には豊臣秀吉の家臣・生駒親正が讃岐国主となり、讃岐国を三分して支配するために、中央の高松城、西の丸亀城に加え、東を守る引田城を整備拡張した。
現在でも引田城には生駒氏時代の野面積みの石垣が遺構として残る。崩れてしまっている石垣も多いが往時を思い起こさせる。
讃岐国の東端、阿波国との国境付近の海沿いに築かれた城。城は海に突き出した半島状の地形に築かれ、麓の引田港を抑え、水軍の拠点として活用された。天正15年(1587)には生駒親正が讃岐国主となり、讃岐東部を支配するために引田城を整備拡張した。現在でも引田城には生駒氏時代の野面積みの石垣が遺構として残る。崩れてしまっている石垣も多いが往時を思い起こさせる。
(2017/4/23 作成)