日本百名城。別名鶴丸城。関ヶ原合戦後に島津家の居城として築かれた城で、背後に山城を擁し、山麓に居館を築いた形式。城の構造は単純で天守もなく簡素な造りであったが、島津藩は領内各地に麓と呼ばれる城を配置し、それにより国を守った。
当地の地頭・佐多氏の本拠地の城で、南北朝時代の文和2年に始まる。天正19年に城主が種子島氏に代わったが、その後城は焼失したと言われる。慶長15年には知覧の領主に佐多氏が復帰し、久峰が現在の場所に麓を置いた。
清色城のあった当地には、宝治元年(1247)に当地に下向した渋谷一族が根付き、支配を行った。清色城はその渋谷氏が南北朝時代末期頃に築城したものと考えられる。渋谷氏は室町時代中期から入来院氏を名乗り、戦国時代には島津家に従い、明治維新まで約600年間当地を治めた。清色城の城下には城下町が開かれ、江戸時代には薩摩藩の入来麓となった。
出水城は島津家の分家である薩州島津家(薩州家)の居城であった。その時代の城は現在の武家屋敷の背後にある城山にあった。江戸時代に入ると城下に麓(武家屋敷群)が設けられ、肥後との国境を守る重要な役目を果たした。現在でも数多くの武家屋敷が残り、江戸情緒の町並みが楽しめる。
伊作城は伊作島津家の居城で、初代・久長が築いたのが始まりと伝わる。以降、十代・忠良に至まで居城となった。忠良の代の頃には島津本家の勢いは衰え、本家十四代当主・勝久は忠良の子・貴久を養子に迎え次の島津本家の当主としたが、忠良と敵対する実久により当主の座を追われた。しかしその後、忠良・貴久親子は挽回し、再び島津本家当主の座を取り返した。
一宇治城は島津家第十五代当主・島津貴久が天文年間に本拠とした城である。それ以前の鎌倉時代以降、伊集院郡司の紀四郎時清(伊集院時清)が最初の城主であったと言われ、時清の子孫が四代続いた後、島津一族の伊集院久兼が城主となっていた。島津貴久は天文十九年(1550)に内城に移転するまで、一宇治城を居城とした。