出水城は島津家の分家である薩州島津家(薩州家)の居城であった。その時代の城は現在の武家屋敷の背後にある城山にあった。
薩州家五代の実久は、本家の家督を巡って、伊作家の島津忠良・貴久親子と争うが敗れ、隠居し子の義虎が家督を継いだ。義虎は伊作家に従って出水城主となり、さらに子の忠辰が継いだ。忠辰は朝鮮出兵の際の不手際で豊臣秀吉によって改易され、出水の地は一時天領となったが、慶長四年(1599)に島津家領に復帰した。
江戸時代に入ると城下に麓(武家屋敷群)が設けられ、肥後との国境を守る重要な役目を果たした。現在でも数多くの武家屋敷が残り、江戸情緒の町並みが楽しめる。
出水城は島津家の分家である薩州島津家(薩州家)の居城であった。その時代の城は現在の武家屋敷の背後にある城山にあった。江戸時代に入ると城下に麓(武家屋敷群)が設けられ、肥後との国境を守る重要な役目を果たした。現在でも数多くの武家屋敷が残り、江戸情緒の町並みが楽しめる。
(2014/2/23 作成)