別名を鶴丸城と呼ぶ。関ヶ原合戦後に島津家の居城として築かれた城で、背後に山城を擁し、山麓に居館を築いた形式である。当初、初代藩主の島津忠恒が当地への築城を思いついたが、父の義弘は防御性に劣るとして反対したと言われる。しかし時代の流れに乗り、城下町をより広く開ける当地に築城された。
城の構造は単純で天守もなく簡素な造りであったが、島津藩は領内各地に麓と呼ばれる城を配置し、それにより国を守った。
幕末から明治維新にかけ、薩英戦争や西南戦争の舞台となり、西郷隆盛は城山で最期を迎えた。
日本百名城。別名鶴丸城。関ヶ原合戦後に島津家の居城として築かれた城で、背後に山城を擁し、山麓に居館を築いた形式。城の構造は単純で天守もなく簡素な造りであったが、島津藩は領内各地に麓と呼ばれる城を配置し、それにより国を守った。
(2008/9/25 作成、2014/2/15更新)