日本三名城、日本百名城。信長の死後に豊臣秀吉が築いたが、天守は豪華絢爛で金箔などで彩られていたと言われる。その後、大坂の陣で城は破壊されるが、江戸幕府により築きなおされる。天守は昭和6年に復興され、現在に至る。
鎌倉時代の末期に伊丹氏が築いたのが始まりと言われ、城名は伊丹城であった。織田信長の攻撃にあい落城し、荒木村重が城主となり有岡城と改名した。村重は信長に対し謀反を起こし再度信長軍により落城した。現在は主郭部が伊丹駅前に残る。
記録によると南北朝時代に築城されたと思われる。摂津国の豪族・池田氏の本拠で、三好氏や織田氏に属した。摂津国拠点が有岡城に移ると池田城は廃城となった。現在は公園に整備され、櫓風の建造物も建つなど城郭としての雰囲気を楽しめる。
高槻城が記録に現れるのは、14世紀前半の入江春則が居城した時である。永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、後に和田氏の家臣であった高山友照が和田惟政の子・惟長を追放し城主となった。江戸時代の慶安二年(1649)には永井直清が高槻藩主となり、以降幕末まで永井家が藩主を務めた。城跡はほとんど残っていないが、一部が公園として整備されている。
室町時代の城主は茨木氏だが、茨木重隆は荒木村重と戦い戦死し茨木家は没落、荒木村重の家臣・中川清秀が城主となった。中川清秀は賤ヶ岳の戦いで戦死し、秀吉の直轄領となった。関ヶ原合戦後には片桐且元が茨木城主に任じられた。且元は豊臣秀頼の重臣であったが、豊臣家滅亡後間もなく死去した。豊臣家滅亡の責を負って自刃したとの説もある。
摂津国北部に位置する城。当地は丸山城を本拠とする能勢氏の領地であった。能勢氏は織田信長の支配下に入っていたが失脚し、本能寺の変が起こると明智光秀に味方し復帰を図るが失敗した。その後の関ヶ原合戦では東軍に与し勝利を得て、故地に復帰した。その後築かれた城が地黄城である。城跡には現在も石垣が残る。