室町幕府の古河公方の本拠地で、渡良瀬川岸にある城で水運を活用した城。やがて北条氏康の甥が足利義氏を名乗り足利氏の養子となり古河公方は北条氏の支配下に入った。これにより古河城も北条氏のものとなった。北条氏の滅亡後は家康の家臣・小笠原秀政が城主となり、以降江戸幕府の重臣が城主をつとめた。中でも土井家は二回にわたり合計約150年間古河を治めた。
利根川と江戸川の分岐点という要衝に位置し、水運や軍事の拠点として機能した城。城の始まりは康正3年に古河公方の家臣・簗田満助が築いたものと言われる。家康の関東転封後は松平康元が封じられ、以降関宿城には江戸幕府の重臣が城主を務めた。
下野の小山氏の一族が逆井を領し逆井氏を名乗り、城を築いたのが始まりと言われる。逆井城は北条家の支配下に入り、対佐竹家などとの戦いの最前線となった。逆井城主は北条家一族の北条氏繁、氏舜、氏勝などが務めた。北条家が滅亡すると、逆井城も廃城となった。現在城跡は公園として整備され二層櫓などが建てられ、戦国期の城の姿が再現されている。
日本百名城。北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、佐倉には徳川家康の五男・信吉、六男・忠輝、のちに土井利勝が入った。現在の佐倉城を築いたのはこの土井利勝で、慶長15年に築城された。城は江戸の東に位置し重要な防御の役割を果たした。
本佐倉城は文明年間(1469~1486)に千葉輔胤によって築かれた城である。千葉家は下総国に勢力を張り、この本佐倉城を本拠地とした。城は印旛沼の近くにあり、印旛沼と城との間は湿地などに囲まれ、難攻不落を誇ったものと思われる。現在城は整備された上に、分かりやすい解説版も設けられ、見学しやすいよう工夫されている。
臼井城は千葉氏の一族・臼井氏によって築かれた城で、時期は14世紀中ごろと思われる。戦国時代には臼井氏は没落し原氏が城主となった。永禄9年(1566)には上杉謙信の軍に城を攻撃されるが、籠城軍側が勝利を収めた。上杉謙信の戦歴の中で数少ない敗戦の1つである。
師戸城は印旛沼の対岸にある臼井城の支城として築かれた城である。臼井城と師戸城の間は「渡」で連絡が結ばれていた。築城時期は14世紀で、現在の形となったのは16世紀中ごろと思われている。師戸城は臼井城と同じく、豊臣秀吉による関東征伐の際に落城し、廃城されたと思われる。
鎌倉幕府の御家人・千葉家の支流である相馬家が城主を務めた城。相馬家は室町時代まで当地を治めるが、戦国時代に北条家の勢力が当地に伸びるとその支配下に入り、守谷城には北条氏綱の娘で北条方の古河公方・足利義氏の妻の芳春院が城に入った。北条家が滅亡すると関東には徳川家康が入り、守谷城には家康の家臣・菅沼定政が入った。