守谷城は鎌倉幕府の御家人・千葉家の支流である相馬家が城主を務めた城である。相馬家は室町時代まで当地を治めるが、戦国時代に北条家の勢力が当地に伸びるとその支配下に入り、守谷城には北条氏綱の娘で北条方の古河公方・足利義氏の妻の芳春院が城に入った。北条家が滅亡すると関東には徳川家康が入り、守谷城には家康の家臣・菅沼定政が入った。その後菅沼家が上山城に転封されると廃城され、佐倉藩などの領地となった。寛文九年(1669)には酒井家が領主となるが、間もなく天和元年(1681)に前橋に転封され、その後守谷は関宿藩の領地となった。
鎌倉幕府の御家人・千葉家の支流である相馬家が城主を務めた城。相馬家は室町時代まで当地を治めるが、戦国時代に北条家の勢力が当地に伸びるとその支配下に入り、守谷城には北条氏綱の娘で北条方の古河公方・足利義氏の妻の芳春院が城に入った。北条家が滅亡すると関東には徳川家康が入り、守谷城には家康の家臣・菅沼定政が入った。
(2013/6/2 作成)