室町時代に今川氏が駿河国の守護になり、駿府に本拠地を置いた。今川義元の時代には、徳川家康が人質として駿府で過ごした。
やがて今川家が武田家によって駿河から追われ、駿府は武田氏の支配下に入り、その後武田氏の滅亡により徳川家康の支配下となった。この時徳川家康が駿府城の築城を行い、天正17年(1589)に完成した。しかし家康は豊臣秀吉によって関東に移封され、それに伴い秀吉の家臣中村一氏が駿府城主となった。
関ヶ原合戦後に家康は将軍職を秀忠に譲り、自身は駿府城を隠居のための城として修築を行い、江戸幕府は江戸と駿府の二元政治が行われた。江戸時代には度重なる火災・地震に見舞われたが、その度に修築が行われた。しかし、明治維新に伴い明治3年(1870)に廃城となった。
日本百名城。 室町時代に今川氏が駿府に本拠地を置いたが、駿府は武田氏の支配下に入った。その後武田氏の滅亡により徳川家康の支配下となり、この時駿府城が築城された。関ヶ原合戦後に家康は自身は駿府城を隠居のための城として修築を行った。
(2008/2/13 作成、 2013/2/2 更新)