日本百名城。徳川家康が大坂城の豊臣家を包囲するために築いた城である。築城には多くの西国大名が動員される天下普請であった。篠山城の縄張りは藤堂高虎が行った。二の丸には御殿が建造され、現在そのうちの大書院が復元されている。
八上城は丹波の戦国大名・波多野氏の本拠城である。織田信長が台頭すると波多野氏は対抗、織田方の武将・明智光秀に城を包囲され、約1年の籠城の末落城し波多野氏は滅亡した。1609年には程近くに篠山城が築城され、八上城は廃城となった。
丹波を平定した明智光秀によって築城された城。光秀の滅亡後は豊臣秀吉の支配下に入り、江戸時代を通じで福知山藩の藩庁として機能した。石垣には築城時に集めた寺社の石塔などが使われている。その石垣上に外観復元天守が建てられた。
天文23年に赤井直正が城主となり、一度は織田信長に降伏するがやがて敵対する。直正は天正6年に没し明智光秀の攻撃を受け落城。このとき光秀の部下・斎藤利三が城主となり、利三の娘である春日局(3代将軍家光の乳母)はこの城下で誕生した。
正徳四年(1714)に築かれた陣屋。当時の藩主は織田信休で、信休は織田信長の子孫に当たる人物である。信休は大和松山藩の藩主であったが、元禄八年(1695)に柏原藩に転封となり、この柏原陣屋を築いた。現在でも陣屋創建当時に建てられた長屋門や、江戸時代に建てられた表御殿が残る他、城下には太鼓櫓も移築現存する。
丹波国を平定中の明智光秀によって築城された城で、光秀の活動の拠点となった。関ヶ原合戦により徳川家の支配下に入り、大坂城の豊臣家を包囲するための城として重視され、天下普請で大改修された。縄張りは藤堂高虎が行ったと言われる。
周山城は織田信長から丹波支配を任された明智光秀が築いた丹波東部に位置する城である。当時の光秀の領国は近江坂本と丹波に跨り、周山城は坂本と丹波国中心の中間点に位置する重要拠点であった。城は本能寺の変後間もなく廃城になったものと思われる。主郭部には今でも明智光秀が築いた石垣が残るなど、見どころの多い城である。
園部城は初代園部藩主・小出吉親が元和五年(1619)に築いた園部陣屋が前身で、明治元年(1868)から翌年にかけて城郭に拡張され園部城となった。現在城跡は園部高校などになっており、櫓門は高校の正門となっている。