今川氏の支配下にあったが、今川義元の敗死後は徳川家康の支配下となった。元亀元年に城を拡張し、以降駿府に移転するまで家康の居城となった。野面積みの石垣と天守が特徴的な城で、天守は鉄筋コンクリート製で再建されたものである。
日本百名城。日本最古の木造復元天守(1995年完成)があり、また二の丸御殿も現存する。掛川城は今川氏の重臣朝比奈氏によって築かれた。今川家滅亡後は徳川家康が支配、徳川家康の関東転封に伴い山内一豊が城主となり、天守を建造した。
高天神城は、遠州灘沿いの山地に築かれた山城。主郭部は崖上にあるため難攻不落を誇った。元亀2年には武田信玄が攻撃したが撤退した。その後信玄の子勝頼が天正2年が再度高天神城を攻撃、ついに落城した。天正9年に徳川家康は再奪還した。
徳川家康と武田勝頼が遠江国をめぐって攻防を繰り広げていた頃、武田方の高天神城に対抗するための城として家臣の大須賀康高に命じて築城させた城である。この城の特徴は石垣で、大井川の河原の丸石が使用されている。
遠江を支配した今川氏が築いた砦が始まりと言われる。その後、甲斐の武田信玄が今川氏を滅ぼし、遠江まで進出した際に小山城を築いた。元亀元年に徳川家康が小山城を落とすが、翌年武田氏が奪還し、武田氏によって改修が加えられた。武田信玄の死後、武田氏の勢力は衰え、織田・徳川連合軍による武田討伐が開始されると、武田の城兵らは城を明け渡し甲斐に撤退した。
大井川西岸に位置する城で、天正元年(1573)に武田勝頼によって築かれた。徳川家康が城を落とすと牧野城と改名し、当時の日記には城が何度も改修された記録が残る。これは大井川東岸の武田勝頼の勢力に備えたものと思われる。武田氏が滅亡すると諏訪原城は役割を終えた。現在は建造物は残らないが、巨大な丸馬出が残るなど、見どころは多い。
天竜川と二俣川の合流地点の崖上という要害に位置する。当初今川氏の支配下にあったが、徳川家康の遠江制圧に伴い家康の支配下となる。その後武田軍が城を落としたが、再度家康が奪還。徳川家康の長男信康が切腹するという悲劇の舞台でもある。
鳥羽山城は二俣城近くに築かれた城で、往時には二俣城と鳥羽山城は二俣川を挟んだ向かい側に位置していた。徳川家の支配時代にはこの二城で一つの城としての役割を担ったが、武田軍が当地を攻略すると、二俣城を活用し、鳥羽山城はうち捨てられた。再び当地を武田家が奪還すると、鳥羽山城も復活した。徳川家が関東に移ると、新たに浜松城主となった堀尾吉晴の弟・宗光が二俣城の城主となり、二俣城と共に鳥羽山城も改修され、石垣造りの城となった。
遠江・三河方面から信濃へ向かう街道沿いの山上に築かれた山城である。応永21年に奥山金吾正が築いたのが始まりと言われる。奥山氏は戦国時代には駿河・遠江の今川氏の支配下に入っていたが、今川氏が没落すると武田氏の支配下に入った。
社山城の築城時期は不明だが、文亀年間に遠江守護・斯波氏が今川氏との戦いの拠点とした。斯波氏と今川氏の争いは今川氏が勝利し、社山城も今川氏の支配下に入った。その後、今川氏が没落すると三河の徳川氏が支配した。城は天竜川東岸にあり、標高130mの山に築かれている。往時は城下を天竜川が流れていたとの事である。