国吉城は若狭国東端に築かれた城で、越前国との国境を守備する役を持っていた。築城は弘治2年(1556)に若狭国守護武田家の家臣・粟屋勝久によるものと伝わる。永禄6年(1553)から約十年間、越前の朝倉氏が若狭に侵攻したが、この国吉城で良く食い止めた難攻不落の城である。元亀元年(1570)には勝久は織田信長の味方し、越前朝倉氏攻めに向かう信長が遠征途中に国吉城に寄った。
天正11年(1583)から城主は羽柴(豊臣)秀吉の家臣である木村定光、若狭国を治めた丹羽長秀・浅野長政・木下勝俊の家臣と変わった。江戸時代は若狭国に封じられた京極家の家老・多賀家と変わった。城下には佐柿の街が拓かれ、若狭国を東西に貫く街道の整備も行い、繁栄を誇った。
現在城跡は整備され、山麓の居館跡と山上の山城部分の両方で遺構を見学できる。また山麓には若狭国吉城歴史資料館も建てられている。
若狭国東端に築かれた城で、築城は若狭国守護武田家の家臣・粟屋勝久によるものと伝わる。永禄6年(1553)から約十年間、越前の朝倉氏が若狭に侵攻したが、この国吉城で良く食い止めた難攻不落の城である。現在城跡は整備され、山麓の居館跡と山上の山城部分の両方で遺構を見学できる。また山麓には若狭国吉城歴史資料館も建てられている。
(2019/5/11 作成)