安東氏は津軽の十三湊を拠点としていたが、嘉永三年(1443)に南部氏との戦いに敗れ蝦夷に逃れた。康正二年(1456)には安東政季が当地を治めていた葛西秀清を破り当地の支配権を得た。その後、政季の子の忠季が明応四年(1495)に檜山城を築いたと伝わる。
この安東氏は檜山安東氏と呼び、檜山城を本拠としたが、他に南方に湊安東氏も現在の秋田市付近を中心に勢力を張っていた。天文20年(1551)には湊安東氏の当主・堯季が死去し、その跡取りがなかったため、檜山安東氏当主の愛季は自らの弟・茂季を送り込み、のちに茂季を隠居させ両安東氏を統合した。
天正15年(1587)には愛季が死去すると子の実季が跡を継ぐが、茂季の子・道季が自らこそが湊安東氏の当主の資格があることを主張し挙兵、実季と道季との間で戦が発生した。実季は檜山城に籠城した後に反撃に転じ、道季を破った。この戦いを湊合戦と呼ぶ。その後、実季は秋田氏を名乗るようになった。
関ヶ原合戦の後、秋田氏は徳川家により常陸へ転封になり、代わって佐竹氏が入封した。檜山城には小場義成、のちに多賀谷氏が入ったが、元和六年(1620)の一国一城令で廃城となった。
安東氏は津軽の十三湊を拠点としていたが、嘉永三年(1443)に南部氏との戦いに敗れ蝦夷に逃れた。康正二年(1456)には安東政季が当地を治めていた葛西秀清を破り当地の支配権を得て、政季の子の忠季が檜山城を築いたと伝わる。安東氏は秋田氏と改姓し、関ヶ原合戦の後常陸へ転封になり、代わって佐竹氏が入封した。檜山城主には小場氏、多賀谷氏が任じられた。
(2012/8/25 作成)