白鳥城は越中を東西に分ける呉羽丘陵の最も高い地点に築かれた山城である。平安時代末期である寿永2年(1183)に、源平合戦の際に源義仲軍が使用したと伝えられ、その後越中守護代の神保氏が支配した。越後上杉氏が越中に勢力を伸ばすと加賀一向一揆との戦いの拠点として活用している。
天正13年(1585)には豊臣秀吉が敵対する越中の佐々成政を攻める際に白鳥城に本陣を置いた(城からは富山平野が見渡せる絶好の立地であり、佐々成政の居城の富山城が一望の元となるため)という説があるが、成政は秀吉が倶利伽羅峠で降伏したため、事実ではないとされる。成政の降伏後は越中の西半は前田利家、東半は佐々成政の支配するところとなり、白鳥城は利家方の城として成政領の監視に当たったとみられる。
越中を東西に分ける呉羽丘陵の最も高い地点に築かれた山城。越後上杉氏が越中に勢力を伸ばすと加賀一向一揆との戦いの拠点として活用している。越中を支配した成政が秀吉に降伏すると、越中の西半は前田利家、東半は成政の支配するところとなり、白鳥城は利家方の城として成政領の監視に当たったとみられる。
(2012/5/5 作成)