三木城は播磨の豪族・別所氏の本拠城である。別所氏は織田信長の勢力が及ぶとこれに従っていたが、やがて織田氏に反旗を翻した。これは信長のその部下である羽柴秀吉の横柄な態度が原因とも言われる。
天正6年(1578)には羽柴秀吉の攻撃を受け、2年間にわたり城を包囲され城内の食料が底を尽き、城主の長治が切腹し開城した。これは「三木の干し殺し」として知られる。
関ヶ原合戦後には姫路藩の持ち城となるが、元和5年(1619)の一国一城令により廃城された。
播磨の豪族・別所氏の本拠城である。天正6年には羽柴秀吉の攻撃を受け、2年間にわたり城を包囲され城内の食料が底を尽き、城主の長治が切腹し開城した。これは「三木の干し殺し」として知られる。元和5年の一国一城令により廃城された。
(2007/7/26 作成)