高城は小丸川と切原川に挟まれた台地を利用して築かれた城である。現在時計台の建てられているのが東側の主郭で、西側の郭とは七本の堀切で隔てられている。
室町時代に、新納氏・土持氏の支配の後、日向の戦国大名・伊東氏の支配下にあったが、島津氏が日向を制圧すると、その家臣である山田有信が城主となった。このとき、伊東氏は隣国である豊後の大友氏を頼って落ち、大友氏は日向の奪取をもくろみ出陣し高城を攻撃した。しかし、山田有信は奮戦し落城せず、大友軍は島津軍の援軍と戦い大敗し撤退した。(耳川の戦い)
その後、豊臣秀吉が九州征伐を行った際にも攻撃を受けるが、やはり落城しなかった。島津家が秀吉に降伏すると財部城(高鍋城)の秋月氏の支配下に入り、その後の一国一城令により廃城された。
新納氏・土持氏の支配の後、伊東氏の支配下にあったが、島津氏が日向を制圧すると家臣である山田有信が城主となった。大友氏は日向の奪取をもくろみ出陣し高城を攻撃しが落城せず、大友軍は島津軍の援軍と戦い大敗し撤退した(耳川の戦い)。
(2008/9/23 作成)