もとは財部(たからべ)城と呼ばれ、平安時代中期頃から土持氏が支配した。長禄元年(1457)に佐土原の伊東氏に支配が移ったが、天正五年(1577)には島津氏が伊東氏を破り、これにより財部城も島津氏の支配下に入った。
天正十五年(1587)には豊臣秀吉による九州征伐が行われ、これにより島津氏は財部城を没収され、かわりに筑前の戦国大名であった秋月氏が封じられた。秋月氏は幕末まで財部藩の藩主をつとめた。寛文九年(1669)に三代藩主・種信が城の修復を行い、また城名を「高鍋」に改めた。
もとは財部(たからべ)城と呼ばれ、土持氏、のち伊東氏が支配したが、島津氏が伊東氏を破り島津氏の支配下に入った。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏が封じられ、幕末まで秋月氏が城主をつとめた。寛文九年に城名が「高鍋」に改められた。
(2008/9/23 作成、2013/12/14 更新)