当地は堀内氏が支配していたが、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で堀内氏は改易され、代わって紀伊国主浅野家の家老・浅野忠吉が新宮に入った。忠吉は翌年慶長六年から新宮城の築城を開始した。元和元年(1615)の一国一城令で廃城となるが、元和四年(1618)に幕府から許可を得て再築が開始された。翌元和五年に浅野家は安芸国に転封となり、代わって徳川御三家の徳川頼宣が紀伊に封じられると、頼宣の家老・水野重仲が城主となった。重仲は築城を継続し、寛永十年(1633)に城は完成した。
新宮城は熊野川が熊野灘にそそぐ河口付近に築かれた城である。城の脇には熊野川が流れ、断崖となっているため堅固な守りを誇る。山頂部の本丸には多くの石垣が用いられ、現在もその姿を見ることができる。また、山麓には二の丸があり、現在は幼稚園となっている。さらに、熊野川沿いには、水の手がある。
熊野川が熊野灘にそそぐ河口付近に築かれた城。城の脇には熊野川が流れ、断崖となっているため堅固な守りを誇る。山頂部の本丸には多くの石垣が用いられ、現在もその姿を見ることができる。さらに、熊野川沿いには、水の手がある。慶長六年から築城が開始され、一時一国一城令で廃城となるが、その後再築が開始し、寛永十年(1633)に城は完成した。
(2013/4/27 作成)