名胡桃城は天正七年(1579)頃に武田勝頼から北条氏の沼田城攻略を命じられた真田昌幸が築城した城である。当時武田氏と北条氏の対立が始まり、武田氏の家臣・真田氏は上野国にて対北条戦線を担当、利根川を挟んで沼田城を窺う地に建てられたのが名胡桃城である。
天正八年(1580)に真田昌幸は沼田城を攻略。その後の天正17年(1589)、豊臣秀吉の裁定により、利根川を境に東は沼田城を拠点に北条氏が、西は名胡桃城を拠点に真田氏が領することとなった。しかし翌天正18年(1590)、北条氏家臣で沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を攻略。これに怒った豊臣秀吉が北条氏を攻め滅亡させた。名胡桃城は戦国大名北条氏滅亡、そして秀吉による天下統一の進捗に大きく関与した。
断崖に細長く突き出た地にギュッとコンパクトに詰まった縄張りであり、細長く突き出た地を空堀で区切りつつ、行き来するための橋を設置していた。現在整備が進み、往時の姿を想像することができる。
名胡桃城は天正七年(1579)頃に武田勝頼から北条氏の沼田城攻略を命じられた真田昌幸が築城した城。天正18年(1590)、北条氏家臣で沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を攻略。これに怒った豊臣秀吉が北条氏を攻め滅亡させた。名胡桃城は戦国大名北条氏滅亡、そして秀吉による天下統一の進捗に大きく関与した。
(2024/5/19 作成)