野田城 | 日本の城写真集

野田城 | 日本の城写真集

野田城

三河国愛知県 / 収録写真枚数:20枚

【城の歴史】
築城は永正五年(1508)に築城を開始し、同十三年(1513)に完成した城で、野田菅沼氏が代々城主をつとめた。菅沼氏は今川氏と松平氏の間で背腹を繰り返すが、最終的には松平(徳川)に帰属し、今川や武田の攻撃に対抗した。
元亀四年(1573)1月、前年12月に三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った武田信玄が徳川方の菅沼定盈が籠る野田城を包囲した。信玄率いる武田の大軍に対して1か月ほど耐え、攻撃が思い通りにいかない武田軍は金堀人夫に穴を掘らせて井戸水を抜く事を試みるなどした。徳川家康も救援軍を率いるが、武田軍の重囲を解くことは難しいと考え撤兵。定盈は自らの命と引き換えに開城することを決断した。定盈は武田家に捕らえられたが3月に人質交換で徳川家に戻り、後日野田城主に返り咲いた。信玄はこの後体調を崩し、甲斐に戻る途中信濃で死去した。
天正18年(1590)に徳川家が関東に居封されると廃城となった。

【城の立地】
三河国を貫く豊川中流域に築かれた城。城下には伊那街道(三河湾沿いの小坂井(豊橋の西)から信州飯田に抜ける街道)が走る交通の要衝であった。

【城の見どころ:普請(土木工事)編】
城の東西は比高約20メートル弱の谷に守られた地形で、南北に3つの曲輪を連ねる連郭式である。現在でも武田軍の猛攻を支えた本丸・二の丸の曲輪・空堀などの痕跡が残る。

【城の見どころ:作事(建築)編】
近くの法性寺にかつての城門が移築されている。

【主な参考文献等】
書籍 中井均・鈴木正貴・竹田憲治編、『東海の名城を歩く 愛知・三重編』、吉川弘文館、2020/3/2
書籍 愛知中世城郭研究会・中井均編 『愛知の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版 2010/9/15
現地看板、設楽原歴史資料館展示

豊川と伊那街道沿いに築かれ、代々菅沼氏が城主を務めた。武田信玄率いる大軍の攻撃を受けたが1か月程粘った守りの固い城。現在も武田軍の猛攻を支えた本丸・二の丸の曲輪・空堀などの痕跡が残るところが見どころ。武田軍が金堀衆に穴を掘らせて井戸の水を抜いて落城させた、信玄が銃で狙撃された、などの逸話も残る。

(2021/12/18 作成)

野田城付近の地図

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