田原城は文明12年(1480)頃に戸田宗光によって築かれた城である。戸田氏はこの田原城を本拠城とし、渥美半島の統一を果たした。やがて三河に今川氏の勢力が及ぶと今川氏に従属していた。しかし、天文16年(1546)に戸田氏は松平氏から今川氏への人質(松平竹千代、後の徳川家康)を護送する任を請け負うが、今川氏を裏切り人質を尾張の織田氏に送ってしまった。これにより今川氏の怒りを買い、攻撃を受けて落城、戸田氏は吉田城を追われた。
今川氏は吉田城に城代を置くが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、松平元康(徳川家康)が攻略、家臣の本多広孝を城主とした。
徳川家康が関東に転封されると、吉田城に入った池田輝政の支配下に置かれた。この時期に城は大きく改修された。関ヶ原合戦後に輝政は播磨へ転封となり、かつての田原城主戸田氏の一族・田尊次が封じられた。寛文4年(1664)には三宅康勝が入封し、以降三宅氏が代々城主を務め、明治維新を迎えた。
文明12年頃に戸田宗光によって築かれた城である。天文16年に戸田氏は松平氏から今川氏への人質(徳川家康)を護送する任を請け負うが、今川氏を裏切り人質を尾張の織田氏に送り、今川氏の怒りを買い攻撃を受けて落城、吉田城を追われた。
(2008/11/4 作成)