久々利城は美濃国守護・土岐氏の一族・久々利氏の居城で、南北朝時代から当地を支配した。美濃を斎藤道三が支配した時代には、烏峰城主(金山城)であった道三の養子・斎藤妙春を討った。これは道三の意を受けたものとも言われる。その後久々利氏は織田信長の支配下に入るが、本能寺の変直後に金山城主の森長可と敵対。一時は和睦するものの久々利氏当主の悪五郎が謀殺され、久々利城も落城した。
以降は森家の支城となるが、関ヶ原合戦後に廃城となった。しかし当地に千村氏が封じられ、城の山麓に陣屋が開かれた。
城は東側の城郭と西側の居館からなるが、現在見学できるのは東側の城郭部分で、非常に良い整備がされており、見学しやすい。
久々利城は美濃国守護・土岐氏の一族・久々利氏の居城で、南北朝時代から当地を支配した。久々利氏は斎藤道三、のちに織田信長の支配下に入る。本能寺の変後には金山城主の森長可と敵対し、久々利城は落城した。当地には千村氏が封じられ、城の山麓に陣屋が開かれた。
(2018/4/8 作成)