多羅城 | 日本の城写真集

多羅城 | 日本の城写真集

多羅城

美濃国岐阜県 / 収録写真枚数:45枚

多羅城(高木三家陣屋)は関ヶ原南方の牧田川西岸の台地に築かれた城である。城付近には伊勢街道が走り、関ヶ原と伊勢方面を結んでいた。城の前面には牧田川が流れ、牧田川の支流の渓谷が城の背後を守った。城の縄張りは、高木三家それぞれの陣屋が独立した曲輪を持つのが特徴である。また、石垣が多用されており、特に最も大きい西高木家陣屋の正面の石垣は非常に立派である。
多羅城は関ヶ原合戦前に当地を治めていた関一政が築いたのが始まりである。関一政は関ヶ原合戦で東軍に与し、戦後は関家の出身地である伊勢亀山に転封となった。関ヶ原合戦時には、西軍の島津家の軍勢が敵中突破の上、多羅城付近を通る伊勢街道を南下し薩摩へ退却した。その際戦死した島津豊久の墓が多羅城近くにある。関ヶ原合戦後に代わりに当地に入ったのは高木家である。高木家は西高木家(高木貞利)、東高木家(高木貞友)、北高木家(高木貞俊)の三家からなり、高木三家は石高は大名に匹敵しなかったものの、江戸幕府から大名の格式が与えられた。この時、城から陣屋に改められたのだろう。また、高木家は水奉行として木曽三川の治水に従事した。宝暦の治水工事の際には、高木家監督のもと島津家から人数が駆り出されて工事が行われたが、難工事のため多数の犠牲者が出たため、島津家の家老・平田靱負が自刃する事件が発生した。関ヶ原合戦、宝暦治水事件と、当地と島津家は因縁関係にあり、現在では岐阜・鹿児島の間でこれを縁とした交流が行われている。
現在は旗本高木三家陣屋跡として整備され、上石津郷土資料館などが建てられている上に、西高木家表門や東高木家の倉などが残る。

多羅城(高木三家陣屋)は関ヶ原南方の牧田川西岸の台地に築かれた城。城の縄張りは、高木三家それぞれの陣屋が独立した曲輪を持つのが特徴。また、石垣が多用されており、特に最も大きい西高木家陣屋の正面の石垣は非常に立派である。現在は旗本高木三家陣屋跡として整備され、上石津郷土資料館などが建てられている上に、西高木家表門や東高木家の倉などが残る。

(2013/7/21 作成)

多羅城付近の地図

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