吉見丘陵の先端に築かれた城で、往時は三方を湿地帯に囲まれた要害に位置する城であった。武蔵松山城をめぐっては、古河公方と扇谷・山内の両上杉氏、のちに相模北条氏・甲斐武田氏・越後上杉氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。
当初武蔵松山城は扇谷上杉氏に属する難波田弾正が支配していたが、天文六年(1537)に北条氏によって扇谷上杉氏の本拠地である川越城が落とされると、当主の上杉朝定の居城となった。北条氏が川越城を落とした際に、その勢いでこの武蔵松山城も攻撃を受けたが、難波田弾正の活躍により撃退した。この戦いは「松山城風流合戦」として知られ、戦のさなかに北条軍の山中主膳と戦中に和歌のやりとりをしたという。
天文十四年(1545)には川越城の奪還に失敗した上杉朝定が難波田弾正とともに敗死し扇谷上杉氏は滅亡、難波田弾正の親戚である上田朝直は北条氏に帰順、城主となった。永禄四年(1561)には上杉謙信の攻撃を受け落城し、岩槻城主の太田資正が城代となった。しかし、永禄六年(1563)に武田・北条連合軍の反撃に遭い再落城、北条氏の支配下に戻った。この戦いで武田軍は金山を掘る職人集団に坑道を掘らせ城に迫ったという言い伝えがある。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めの際には、前田利家・上杉景勝らの軍勢の攻撃を受け落城した。その後徳川家康の関東転封に伴い家康の支配下に入ったが、慶長六年(1601)に廃城となった。
なお、この城のすぐそばには吉見百穴がある。
吉見丘陵の先端に築かれた城で、往時は三方を湿地帯に囲まれた要害に位置する城であった。武蔵松山城をめぐっては、古河公方と扇谷・山内の両上杉氏、のちに相模北条氏・甲斐武田氏・越後上杉氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。
(2008/3/4 作成)