本丸側から見る虎口跡。二の丸から本丸に入る、追手門とは別のもう一つの虎口。追手門と同じく枡形構造。木橋は無く土橋で道がつながる。また礎石の一部が発見されていることからも、ここに門が建っていたと思われる。
本丸虎口跡の石垣。豊臣秀吉の奥州仕置軍は九戸城を天正19年(1591)9月2日に囲み、4日に落城した。南部氏はその後三戸城からここ九戸城に本拠を移し福岡城と名を改めるのであるが、落城直後の10日から早くも仕置軍による城普請が開始され、約10日程で完成したとのことである。驚くべき速さであり、仕置軍の大量の兵士を動員したのであろうか。普請は豊臣家臣の浅野長吉の指揮のもと会津の大名・蒲生氏郷が担った。
本丸虎口跡の石垣。この石垣は豊臣秀吉の奥州仕置軍による落城直後に普請された際に築かれたものである。
本丸虎口跡の石碑
本丸石垣。V字状に石垣が残るのは、寛永13年(1636)に南部氏の本拠盛岡城が完成した際に破城を受けたからであろうか。
本丸石垣。V字状に石垣が残るのは、寛永13年(1636)に南部氏の本拠盛岡城が完成した際に破城を受けたからであろうか。