櫛崎城は室町時代に当地を治めた大名・大内氏の家臣・内藤隆春が築城したと伝わる。大内家最後の当主・大内義長は毛利氏の攻略を支えきれず山口を脱出すると、当地にたどり着いたが、櫛崎城近くの功山寺で毛利軍に囲まれ自刃した。
櫛崎城は大内氏を滅ぼした毛利氏の城となったが、毛利氏は関ヶ原合戦で敗北し、周防・長門の二カ国に減封された。その際に当地に毛利秀元(毛利元就の四男・穂井田元清の子)が封じられ、長府藩を開き、櫛崎城を本拠とした。長府藩は毛利本家の長州藩の支藩として、両国の西側の守りを担った。これ以来、城名は「雄山城」と呼ばれた。元和元年に一国一条令が発せされると、櫛崎城は廃城となり、代わって居館が建てられた。
現在は城域は関見台公園として整備されている。
大内氏の家臣・内藤隆春が築城したと伝わる。大内家最後の当主・大内義長は毛利氏の攻略を支えきれず山口を脱出すると、当地にたどり着いたが、櫛崎城近くの功山寺で毛利軍に囲まれ自刃した。櫛崎城は大内氏を滅ぼした毛利氏の城となったが、毛利氏は関ヶ原合戦で敗北し、防長に減封された。その際に当地に毛利秀元が封じられ、長府藩を開き、櫛崎城を本拠とした。
(2013/1/4 作成)