元々この地方の海沿いに富隈城があったが、関ヶ原の戦い後に徳川軍の襲来に備えるために築かれた城が国分城(舞鶴城、国分御屋形、国分新城とも呼ぶ)である。国分城は平城だが、背後の山に山城である隼人城を築き、後ろ堅固とした。
完成は慶長九年(1604)で以降島津義久の居城となり、義久が死去するまで在城した。それ以降も当地の政治の拠点として役割を果たした。
元々この地方の海沿いに富隈城があったが、関ヶ原の戦い後に徳川軍の襲来に備えるために築かれた城。別名舞鶴城とも呼ぶ。国分城は平城だが、背後の山に山城である隼人城を築き、後ろ堅固とした。以降も当地の政治の拠点として役割を果たした。
(2008/9/24 作成)