国宝、天守の現存する城。日本百名城。井伊直継が慶長8年(1603)に築いた城。徳川家康が大坂城の豊臣家を警戒し、豊臣軍の東進を阻止する目的で築かれた。築城に際しては、佐和山城、長浜城、大津城など近隣の城から建築物を移築した。
戦国時代には六角氏、浅井氏、織田氏が支配し、重要な役割を果たした。秀吉の時代には石田三成が城主となった。三成は失脚後に佐和山城に蟄居し、打倒家康の策を練った。挙兵し関ヶ原合戦に及ぶが敗北し、城は東軍の包囲を受けて落城した。
日本百名城。織田信長が築いた城で、天正7年に天守が完成し岐阜城から本拠を移した。当時は城の三方は琵琶湖に囲まれ、湖に突出する山に城が築かれた形であった。天正10年の本能寺の変の際に天主は焼失し、天正12年に廃城となった。
日本百名城。佐々木氏、六角氏の本拠地。六角氏は近江北部の戦国大名・浅井氏と対立するなど弱体化し、永禄11年(1568)には将軍を擁した織田信長が侵攻してくると観音寺城から退去した。城はこの時に廃城となった。
天正13年に豊臣秀吉の甥・秀次が築いた城。城下町には水堀を兼ねた水路が整備され、今日でもその面影を残す。秀次にかわって京極高次が入封したが、居城を大津城へ移した。そのため廃城となったが、廃城後も城下は商人の町として栄えた。
小堤城山城は琵琶湖南の野洲郡にある山城で、近江の戦国大名・六角氏の家臣・永原氏が城主であったとみられる。城には多くの石垣が存在し、織田信長以前に石垣の城を築いた先進性が見られる。
佐生城は六角氏の本拠・観音寺城の支場で、観音寺城から尾根伝いに北端まで行ったところに築かれている。城を守ったのは六角氏の重臣・後藤氏と言われる。主郭は石垣造りで今でも野面積みの武骨な立派な石垣が残る。
北近江の戦国大名・浅井氏の支配下にあり、堀秀村が城主をつとめた。秀村は永禄13年に織田信長方に寝返り、浅井氏の猛攻を受けるものの、信長の部下・羽柴秀吉の支援によって撃退した。天正2年に堀氏は改易され、鎌刃城は廃城となった。
近江北部の戦国大名・浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、その領地の支配者として羽柴秀吉が任じられた。秀吉は新たに湖畔に城を築いた。これが長浜城である。当地はもともと今浜という地名であったが、秀吉は築城を期に「長浜」と改めた。
日本百名城。近江北部を支配した戦国大名・浅井氏の本拠城で、日本屈指の規模を誇る山城。築城したのは初代・亮政で、築城年は大永四年頃と伝わる。天正元年に織田信長の大軍に包囲され、小谷城は落城し浅井の当主・長政と父・久政は自害した。
寛永11年に将軍の宿館用に築かれた城である。築城は小堀遠州が担当した。城は東海道の道筋にあり、将軍が江戸から京都へ向かう際に使用された。築城後は城番が管理していたが、天和2年に水口藩が立藩され、加藤氏が藩主となった。
水口岡山城は天正13年(1585)に築かれた城で、本能寺の変後に権力を握った羽柴秀吉が配下の中村一氏に築かせたものである。その後、増田長盛、長束正家が城主を務めた。正家は関ヶ原合戦では西軍側となり改易され、廃城となった。その後、江戸時代に入ると西側の平地に水口城が築かれ、水口岡山城の石垣が水口城に運ばれたと言われる。かつては城の中心部は石垣造りだったようで、現在でも部分的に石垣が残る。また城は整備がされて歩きやすく、また景観も良い名城である。
三雲城は戦国時代に南近江を支配した六角氏の配下・三雲氏の居城。三雲氏は、下甲賀と野洲郡・栗東郡を支配し六角氏の重臣を務め、三雲城は六角氏が危機の際に逃げ込む城であった。永禄六年(1563)の観音寺騒動と、同11年(1568)の織田信長の侵攻の際には、ともに六角義賢と子の義治は観音寺城を落ち延びこの三雲城に逃げ込んだ。六角氏は観音寺騒動後は三雲城から観音寺城に復帰したものの、信長侵攻後は復帰できず。元亀元年(1570)に六角方は野洲川の戦いで織田方に敗れ、三雲城は落城し信長の手に落ちた。
琵琶湖北西部の湖畔にある城。安土城(織田信長)・長浜城(羽柴秀吉)・坂本城(明智光秀)と共に琵琶湖の水運ネットワークの一角として機能し、天正六年(1578)には城主に信長の甥・織田信澄が据えられた。江戸時代に入った元和五年(1619)には分部氏が当地に封じられ、大溝陣屋を開き、幕末に至った。
琵琶湖の西側山中にある朽木谷に開かれた陣屋。当地は鎌倉時代から室町時代にかけて朽木氏が支配した。朽木谷は若狭から京都へ抜ける重要な街道であった。戦国時代に織田信長は越前の朝倉氏を攻めた際に、義弟の浅井長政に裏切られ退路を断たれたが、信長はこの朽木谷を通り京都へ無事帰還した。
元亀二年の比叡山焼き討ちのあと築かれた城である。城主には明智光秀が任じられた。城は琵琶湖に面し信長の本拠城である安土城と坂本城は琵琶湖の水運で直結していた。本能寺の変の際に城は焼け落ちたが、本能寺の変後、丹羽長秀により再築された。
大津城は琵琶湖の南西端に位置する場所に築かれていた城。築城は天正14年(1586)頃と言われ、初代城主は秀吉の親戚で重臣の浅野長政である。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では城主・京極高次は東軍につき、西軍の攻撃を受けた。一週間ほどの攻防ののち9/14に高次は開城したが、大津城を攻めた西軍は9/15の関ヶ原本線には間に合わなかった。戦後家康は西軍を大津に足止めした高次の功を高く評価した。その後大津城は廃されたが、大津城の天守は彦根城に移築されたと言われる。
三大湖城(琵琶湖畔)。関ヶ原合戦後の慶長 6年に徳川家康が大津城を廃し膳所城を築いた。膳所城は京都のすぐ東に位置し、東海道を扼する重要地であった。そのため歴代城主は、戸田氏、本多氏、菅沼氏、石川氏と、三河出身の家臣が任じられた。