三雲城は戦国時代に南近江を支配した六角氏の配下・三雲氏の居城であった。築城は長享元年(1487)で、六角氏の本拠・観音寺城が室町将軍・足利義尚の攻撃を受けると、三雲実乃に命じて築かせたのが城の始まりである。三雲氏は、下甲賀と野洲郡・栗東郡を支配し六角氏の重臣を務めた。時代は下って永禄六年(1563)の観音寺騒動と、同11年(1568)の織田信長の侵攻の際には、ともに六角義賢と子の義治は観音寺城を落ち延びこの三雲城に逃げ込んだ。六角氏は観音寺騒動後は三雲城から観音寺城に復帰したものの、信長侵攻後は復帰できず。元亀元年(1570)に六角方は野洲川の戦いで織田方に敗れ、三雲城は落城し信長の手に落ちた。なお三雲氏は信長の死後、六角氏家臣時代の同僚であるの蒲生氏郷の家臣となり、さらに後には江戸幕府の旗本として存続した。
三雲城は戦国時代に南近江を支配した六角氏の配下・三雲氏の居城。三雲氏は、下甲賀と野洲郡・栗東郡を支配し六角氏の重臣を務め、三雲城は六角氏が危機の際に逃げ込む城であった。永禄六年(1563)の観音寺騒動と、同11年(1568)の織田信長の侵攻の際には、ともに六角義賢と子の義治は観音寺城を落ち延びこの三雲城に逃げ込んだ。六角氏は観音寺騒動後は三雲城から観音寺城に復帰したものの、信長侵攻後は復帰できず。元亀元年(1570)に六角方は野洲川の戦いで織田方に敗れ、三雲城は落城し信長の手に落ちた。
(2020/4/6 作成)