高遠城は、戦国時代には諏訪氏の一族である高遠氏の支配下にあったが、天文14年(1545)に甲斐の武田信玄が高遠氏を降伏させた。以降は高遠城は武田氏が支配し、秋山信友、武田勝頼、武田信廉(信玄の弟)が城主を務めた。
やがて武田氏は弱体化し、天正10年(1582)には織田信長の侵攻を受ける。高遠城主であった信玄の五男・仁科盛信は籠城するが、大軍には敵わず落城、盛信は切腹した。
武田氏滅亡後は、元武田氏の家臣で徳川氏に降伏した保科氏が城主をつとめた。保科氏は江戸時代には高遠藩藩主となり、また二代将軍・秀忠の隠し子を預かり養子として迎えた。これが保科正之であり、三代将軍・家光の弟として幕府の要職を歴任した。やがて正之は山形へ転封され、鳥居氏、内藤氏が藩主となり、幕末に至った。
日本百名城。高遠氏の支配下にあったが武田氏が支配し、秋山信友、武田勝頼、武田信廉が城主を務めた。天正10年には織田信長の侵攻を受け、城主であった信玄の五男・仁科盛信は籠城するが、大軍には敵わず落城、盛信は切腹した。
(2008/11/14 作成、2019/5/5 更新)