現在は東西約80メートル南北約110メートルの長方形で周囲に土塁と濠を巡らしたものが残り、伴野氏の居館であったと思われる。また、戦国時代にはこの居館を中心に曲輪を増築されていたと考えられる。
城の東側のようす。出入り口が設けられているが、後世に造られたものか。
城内東側のようす。往時の土塁が残る。発掘調査により、東側土塁には下部に石積みが存在することが発見された。
城内のようす
城南西部のようす。社の建てられている一段高くなっている部分には、かつては櫓が建っていたと言われる。
城南西部のようす。社の建てられている一段高くなっている部分には、かつては櫓が建っていたと言われる。
城南側の虎口。往時も虎口はここにあった。虎口の土橋には石積みが用いられていた。
城南側の虎口。往時も虎口はここにあった。虎口の土橋には石積みが用いられていた。
虎口脇の濠
城の南東隅付近から。城の東側の南半分は土塁が消失している。