【城の歴史】
興国寺城は後世北条早雲と呼ばれる伊勢新九郎長氏の旗揚げの城として有名である。長氏は今川家の当主義忠の死後の後継者争いで氏親を支援し、氏親が当主となった後に恩賞として興国寺城を与えられた。長氏は興国寺城を拠点に伊豆国の堀越公方・足利茶々丸を滅ぼして伊豆国を支配下に置いた。
その後天文6年(1537)からは今川氏が支配したが、永禄12年(1569)に甲相駿三国同盟が崩壊し今川氏が武田氏に攻められ没落すると、武田氏と争った北条氏が確保。元亀3年(1572)に甲相同盟が復活すると北条氏から武田氏に引き渡された。さらに武田氏滅亡後は徳川氏が、徳川氏の関東移封により豊臣氏が支配した。
関ヶ原の合戦後には、天野康景が城主となったが、康景は無実の足軽の罪をかばって逐電し、興国寺城は廃城となった。
【城の立地】
城は駿河国の東端に位置し、伊豆国との境界を守備する役を担った。
城は北方の山から伸びる尾根の先端に築かれ、根元から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸と並ぶ。
【城の見どころ:普請(土木工事)編】
16世紀末から17世紀初頭にかけて普請されたと思われる天守台と、天守台北にある大堀切が見事。天守台の高さは約15mもの高さを誇る。
【城の見どころ:作事(建築)編】
特になし
【主な参考文献等】
書籍 平山優著 『図説 武田信玄』 戎光祥出版 2022/2/3
興国寺城は北条早雲(伊勢新九郎長氏)の旗揚げの城として有名である。今川家家臣であった長氏は功を挙げ興国寺城を与えられ、ここを拠点に伊豆国の堀越公方・足利茶々丸を滅ぼして伊豆国を支配下に置いた。巨大な土塁と深い堀切を擁する。
(2008/2/12 作成、2022/4/27 更新)