鳥羽山城は二俣城近くに築かれた城で、往時には二俣城と鳥羽山城は二俣川を挟んだ向かい側に位置していた。徳川家の支配時代にはこの二城で一つの城としての役割を担ったが、武田軍が当地を攻略すると、二俣城を活用し、鳥羽山城はうち捨てられた。再び当地を武田家が奪還すると、鳥羽山城も復活した。徳川家が関東に移ると、新たに浜松城主となった堀尾吉晴の弟・宗光が二俣城の城主となり、二俣城と共に鳥羽山城も改修され、石垣造りの城となった。
鳥羽山城は二俣城近くに築かれた城で、往時には二俣城と鳥羽山城は二俣川を挟んだ向かい側に位置していた。徳川家の支配時代にはこの二城で一つの城としての役割を担ったが、武田軍が当地を攻略すると、二俣城を活用し、鳥羽山城はうち捨てられた。再び当地を武田家が奪還すると、鳥羽山城も復活した。徳川家が関東に移ると、新たに浜松城主となった堀尾吉晴の弟・宗光が二俣城の城主となり、二俣城と共に鳥羽山城も改修され、石垣造りの城となった。
(2013/3/24 作成)