当地には応仁の乱の際に当地に避難してきた関白・一条教房によって中村御所が開かれた。教房は中村御所を中心に街を発展させた。中村城は土佐国西部・四万十川と後川に挟まれた山上に築かれた城で、一条家の重臣・為松氏によって築かれたと思われる。
一条家第五代・兼定の時には長宗我部家との争いに敗れ、兼定は豊後に追放され、中村は長宗我部家の支配下に入った。江戸時代には土佐に山内家が入り、中村には山内一豊の弟・康豊が封じられた。
現在、城跡の二の丸には模擬天守が建ち、内部は四万十市立郷土資料館となっている。また、中村御所跡には一條神社が建てられている。
当地には応仁の乱の際に当地に避難してきた関白・一条教房によって中村御所が開かれた。中村城は土佐国西部・四万十川と後川に挟まれた山上に築かれた城で、一条家の重臣・為松氏によって築かれたと思われる。現在、城跡の二の丸には模擬天守が建ち、内部は四万十市立郷土資料館となっている。また、中村御所跡には一條神社が建てられている。
(2011/12/30 作成)