聚楽第は当時関白に就任した豊臣秀吉が天正15年(1587)に築いた城で、京都を抑える拠点として機能した。秀吉が関白職を養子の秀次に譲ると、聚楽第は秀次のものとなった。しかし秀吉に実子ができると秀次は秀吉から疎まれ、文禄4年(1595)秀次は切腹し、聚楽第は廃城された。現在城跡は京都市街地に埋もれ、遺構は殆ど残っていない。しかし聚楽第の移築建築と伝わる建物がいくつか残る。
当時関白に就任した豊臣秀吉が天正15年(1587)に築いた城。秀吉が関白職を養子の秀次に譲ると、聚楽第は秀次のものとなった。しかし秀吉に実子ができると秀次は秀吉から疎まれ、文禄4年(1595)秀次は切腹し、聚楽第は廃城された。現在城跡の遺構は殆ど残っていないが、移築建築と伝わる建物がいくつか残る。
(2012/7/30 作成)