【城の歴史】
勝龍寺城は南北朝時代に北朝方が南朝方に備えて築かれたのが始まりと言われる。応仁の乱では畠山義就側の城となった。
その後、戦国時代の永禄11年(1568)に織田信長が上京した際には、三好方の岩成友通が城主をつとめており、信長軍の攻撃を受け開城。その後、元亀2年(1571)に細川藤孝が信長から城主に任じられ、城に大きな改修を施し、石垣を用いるなど当時の最先端の城の姿に改められた。
本能寺の変の際には勝龍寺城は明智光秀が抑え、西に位置する山崎で羽柴秀吉との決戦が行われた。敗れた光秀は山崎から勝龍寺城に入るものの、北門から城を出て坂本城へと落ち延びる途中に落命した。
【城の立地】
城下には京都と摂津を結ぶ西国街道が走り、また城の南東には京都と大阪を結ぶ河川の大動脈である桂川などが流れる。街の西には天王山が迫り、川と山の間に開かれたこの地は京都と摂津・大坂間の交通を抑える要衝であった。
【城の見どころ:普請(土木工事)編】
元亀2年(1571)に細川藤孝が城主となり、城に大きな改修を施し、石垣を用いた枡形門を設けるなど当時の最先端の城の姿に改められた。北門にはその当時築かれた石垣が残る。今見られる石垣の約下半分が細川藤孝が築いた石垣とのことである。
【城の見どころ:作事(建築)編】
現在はかつての本丸に勝龍寺城公園が整備され、模擬の櫓や門が建てられるなど整備されている。
【主な参考文献等】
テレビ 京都浪漫 悠久の物語「細川ガラシャ波乱の生涯 謎多き幽閉生活迫る 宮津盛林寺」 、BS11、21/12/20放送
南北朝時代に南朝方に備えて築かれたのが始まりと言われる。応仁の乱では畠山義就側の城となった。その後畿内を織田信長が治めるようになると、細川藤孝が城主となり城に改修を施した。現在は勝龍寺城公園として整備されている。
(2007/6/11 作成、2015/2/1更新、2022/4/27 更新)