宇陀松山城は戦国時代に宇陀三将の一角・秋山氏が本拠を置いた城で、秋山城とも呼ばれる。織田信長の死後、天下を握った羽柴秀吉の弟・秀長が大和を治めるようになると、当地も秀長の領地となった。関ヶ原合戦後には、福島正則の弟・高晴が城主となり三万石の領地を治めたが、大坂の陣で豊臣方への内通を疑われ改易された。その際に宇陀松山城は廃城された。その後、当地は織田信長の次男・信雄の所領となり、松山陣屋が開かれた。のちに織田家が転封されると、天領となった。
戦国時代に宇陀三将の一角・秋山氏が本拠を置いた城。織田信長の死後、羽柴秀吉の弟・秀長が大和を治めるようになると、当地も秀長の領地となった。関ヶ原合戦後には、福島正則の弟・高晴が城主となったが、大坂の陣で豊臣方への内通を疑われ改易され、その際に廃城された。その後、当地は織田信長の次男・信雄の所領となり、松山陣屋が開かれた。
(2013/4/14 作成)