信貴山城は天文年間に木沢長政によって築かれた城である。永禄年間には大和国を支配した松永久秀が城を改修した。永禄11年(1568)には敵対する三好三人衆に敗れ城は陥落するが、上洛した織田信長の支援を得た久秀は間もなく城を奪還した。その後、久秀は信長に対し二度謀反を起こすが、天正5年(1571)の二度目の謀反の時に城を信長の大軍に囲まれ、平蜘蛛茶釜に火薬を詰めて爆死したと言う。
城は大和・河内国境の信貴山に築かれ、山腹には朝護孫子寺がある。空鉢堂のある山頂が本丸で、そこに天守が上がっていたと言われる。
天文年間に木沢長政によって築かれた。永禄年間には大和国を支配した松永久秀が改修した。久秀は上洛した織田信長の傘下に入るが、信長に対し二度謀反を起こした。二度目の謀反の時に城を信長の大軍に囲まれ、平蜘蛛茶釜に火薬を詰めて爆死した。
(2009/11/18 作成)