高取城は南北朝時代に大和南部に勢力を張った越智氏によって築かれた城である。大和国を制圧した織田信長により天正八年(1580)に一度は廃城となったが、大和国に封じられた筒井順慶が大和郡山城の支城として天正12年(1584)に再築した。のちに豊臣秀吉の弟である秀長が大和を治めるようになると、現在見られるような近代城郭への整備を行い、その事業は養子秀保の代に引き継がれて行われた。江戸時代には本田氏、植村氏などが城主を務め幕末を迎えた。
日本三大山城に数えられ、山麓の城下町との比高は400mある。江戸時代に入ると、通常は山奥の城は不便であることから平地に移されたが、高取城は山城部分の廃されなかった。ただし、やはり山城は普段の生活には不便なため、山麓に屋敷が設けられた。また城域は広大だが、現在でも多くの箇所に多数の石垣が残る。また幾つかの建物が山麓に移築され現存する。
三大山城、日本百名城。南北朝時代に大和南部に勢力を張った越智氏によって築かれた。豊臣秀吉の弟である秀長が大和を治めるようになると、養子秀保の代にかけて現在の見られる近代城郭に整備した。現在でも石垣は往時の威容を保っている。
(2007/6/11 作成、2013/4/8 更新)