かつては大宝寺城と呼ばれ、鎌倉時代から庄内平野を支配した武藤氏の本拠地であった。
戦国時代の末期の天正15年(1587)には、越後上杉氏の配下で村上城主の本庄繁長の攻撃を受け武藤氏は滅亡し、大宝寺城は上杉氏の属城となった。
上杉氏は関ヶ原合戦に敗れ庄内を没収され、かわりに最上義光の領地となった。最上義光は大宝寺城を改修し、名を鶴ヶ岡城と改めて自らの隠居城とした。
やがて最上氏が改易されると、酒井氏が入国し幕末まで城主を務めた。明治維新により廃城され、現在は堀と土塁等が残り、本丸は庄内神社となっている。
かつては大宝寺城と呼ばれ、庄内平野を支配した武藤氏の本拠地であった。天正15年に越後上杉氏の攻撃を受け武藤氏は滅亡、さらに上杉氏は関ヶ原合戦に敗れ、最上義光の領地となった。義光は城の名を鶴ヶ岡城と改めて自らの隠居城とした。
(2008/7/16 作成)