当地は伊勢国の山間部に位置するが、大坂・奈良方面から伊勢神宮へ抜ける伊勢本街道が通る要所であった。そこに設けられたのが北畠氏館であり、北畠氏館が敵襲を受けた際に背後の山に築かれた霧山城へ避難するようになっていた。北畠氏館の西側には霧山城に繋がる山があり、他の三方は川に囲まれるという要地に位置した。北畠氏館には武家の作った庭園があり、また館跡には石垣が用いられていたことが分かっている。霧山城には中心部には大きく2つの峰からなり、北側の峰が奥側に位置し2つの曲輪を持ち、手前の南側の峰には鐘撞堂と呼ばれる曲輪がある。
北畠氏は興国3年(1342)に本拠としていた田丸城が落城すると、当地に本拠を移したと伝わり、その後霧山城も築かれたものと思われる。戦国時代には北畠家は伊勢を始め、紀伊・大和の一部を支配するなど、勢力を広げた。しかし、永禄12年(1569)に尾張から侵攻した織田信長の軍門に降り、天正4年(1576)に北畠具教が信長に殺害されると、霧山城も落城し廃城されたものと思われる。
現在、霧山城の麓には北畠神社が建ち、その敷地内に北畠氏館跡庭園が整備されている。また、美杉ふるさと資料館では霧山城や北畠氏館などの展示を見学できる。
当地は伊勢国の山間部に位置するが、大坂・奈良方面から伊勢神宮へ抜ける伊勢本街道が通る要所であった。北畠氏は興国3年(1342)に本拠としていた田丸城が落城すると当地に本拠を移したと伝わり、その後霧山城も築かれたものと思われる。戦国時代には北畠家は伊勢を始め、紀伊・大和の一部を支配するなど勢力を広げた。
(2013/7/20 作成)