三大平山城、日本百名城。 関ヶ原合戦の戦功により加増を受けた伊予松前城主・加藤嘉明が築城した城。山上に本丸、山麓に二の丸、三の丸を配する。本丸には連立式の天守が築かれた。天守以外にも多くの建造物が現存する。
三大水城、日本百名城。関ヶ原合戦後の伊予半国の国主・藤堂高虎が築いた城で慶長 9年(1602)に完成した。城は海に面しており、海運を重視した平城である。築城当時は天守も存在したが、高虎によって丹波亀山城へ移築された。
日本百名城。伊予国守護・宇都宮豊房が築き、以降宇都宮氏の本拠地であった。その後、河野氏、藤堂高虎、加藤貞泰が入封、幕末まで加藤氏が藩主を務めた。天守は2004年に木造復元されたもので、珍しい4層で下見板張りされ無骨な外観である。
天守の現存する城。日本百名城。天文15年(1546)に家藤監物が築いた板島丸串城が城の始まりと言われる。文禄4年に藤堂高虎が封じられ、のちに伊達宗秀(政宗の子)が宇和島藩主となり、この時城名が「宇和島城」と改められた。
三方を流れる川に守られた山に築かれた城。戦国時代には板島(宇和島)の西園寺家の家臣・渡辺家が城主を務めた。四国が豊臣秀吉によって平定されると、その配下の戸田勝隆、藤堂高虎が支配した。藤堂高虎はこの宇和島城を築くと、河後森城の三層天守を宇和島城に移築し月見櫓としたと伝わる。
日本百名城。伊予国の戦国大名・河野氏の本拠地で、築城は14世紀前半の河野通盛と言われる。天正13年には豊臣秀吉が四国征伐に乗り出し、当主の河野通直は降伏した。これにより河野氏による伊予国支配は終結、程なくして廃城となった。
能島城は能島村上水軍の本拠城で、能島全体を城塞としたものである。能島は芸予諸島の大島・伯方島の間に浮かぶ小島で、付近は潮流が激しく、村上水軍はその潮流を熟知し海運を担うと共に通行料を徴収した。現在島は無人島であり、花見のシーズン以外に島に渡る事はできないが、村上水軍博物館前から潮流体験船で能島に近づくことができる。
村上水軍である来島家の本拠城。島全体が城跡で、島の周囲の岩礁には船を停泊させる施設を立てるための穴が多数残る。島は伊予・今治沖に浮かび、芸予諸島の最南部にある来島海峡を厄する。豊臣秀吉が四国平定の際には秀吉に味方し、その配下として活躍するが、関ヶ原の戦いで西軍につき豊後森に転封された。
仏殿城は川之江城とも呼ばれ、瀬戸内海沿岸の山上に築かれた山城。当地は、東は阿波、北は讃岐、南は土佐、西は伊予へ至る交通の要衝であり、それ故仏殿城を争う戦も多かった。現在、城には模擬天守や城門が建てられ、城からは瀬戸内海を見渡すことができる。
西条陣屋は寛永13年(1636)に一柳直重により築かれた陣屋。直頼の父・直盛が伊予西条への転封道中で死去したため、直重がその遺領を拝し陣屋を築いた。一柳家が改易されると、寛文十年(1670)に徳川御三家・紀州藩出身の松平頼純が藩主となった。現在陣屋跡は西条高校となっているが、周囲は水濠で囲まれ、かつての陣屋の面影を残す。
小松陣屋は寛永13年(1636)に一柳直頼により築かれた陣屋。直頼の父・直盛が伊予西条への転封道中で死去したため、長兄・直重が西条を領するとともに、三男の直頼が小松に陣屋を構えた。
明暦三年(1657)に宇和島藩初代藩主である伊達秀宗の五男・伊達宗純が3万石を分知された際に設けられた陣屋。現在陣屋跡には御殿風の図書館が建てられている。