【城の歴史】
永正5年(1508)に今川氏の家臣・菅沼元成が築いたものと言われる。菅沼氏は今川義元の死後は徳川家康の支配下にあったが、元亀3年(1572)に武田信玄の支配下に入った。その後城は徳川家が攻略し菅沼氏は退去した。
天正3年(1575)には武田氏に城を包囲されるが、城主の奥平貞昌は城を何とか死守。その間に報を受けた徳川・織田の連合軍が長篠城救援へ向かった。これにより武田軍と徳川・織田軍が衝突し、戦ったのが長篠の戦いである。戦いの翌年の天正4年(1576)には長篠城は廃城され、新城に新たな城を築き移転した。
【城の立地】
長篠城は三河東部を流れる豊川沿いに位置する城で、長篠城から上流は山がちの地形で信濃国方向へ繋がり、ここから下流は平地となり豊橋へと至る。
城は寒狭川(豊川)と宇連川の合流地点に築かれ、両川に面する部分は比高50メートルほどの断崖になっている。この断崖を背後に、扇形に曲輪が広がっていた。
【城の見どころ:普請(土木工事)編】
多くの遺構は失われてしまったが、城の中心部などに規模の大きな空堀が残る。
【城の見どころ:作事(建築)編】
JR新城駅付近にある桃牛寺の山門は長篠城の弾正門を移築したものである。
【主な参考文献等】
書籍 中井均・鈴木正貴・竹田憲治編、『東海の名城を歩く 愛知・三重編』、吉川弘文館、2020/3/2
書籍 愛知中世城郭研究会・中井均編 『愛知の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版 2010/9/15
現地看板、長篠城址史跡保存館
日本百名城。長篠城は寒狭川と宇連川の合流地点に築かれた城。今川義元の死後は徳川家康の支配下にあった。天正3年には武田氏に城を包囲され、徳川・織田の連合軍が長篠城救援へ向かい、武田軍と衝突したのが長篠の戦いである。
(2008/11/4 作成、2021/12/18 更新)